「最近、会話で聞き返すことが増えた気がする」「家族からテレビの音が大きいと言われるようになった」——。もし、あなたや大切なご家族に、このような心当たりがあるなら、それは単なる「年のせい」で片付けてはいけないサインかもしれません。
多くの方がささいなこととして見過ごしがちな、この“少しの聞こえにくさ”。近年の研究では、難聴と将来の認知症リスク上昇の関連が相次いで報告されています。
この記事では、難聴と脳の健康に関する最新の科学的知見の中から、特に知っておくべき内容と対策について「5つの新常識」として紹介していきます。
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1. 新常識①:予防できる認知症の最大リスク因子は「難聴」だった
認知症予防といえば、高血圧対策や運動、禁煙などを思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、世界で権威ある医学雑誌の一つ『The Lancet』の国際委員会が2020年に発表した2024年に更新された報告では、難聴が予防可能な認知症リスク因子であると報告されています。
この報告では、認知症を予防できる可能性がある12の生活習慣因子が挙げられましたが、その中でも、中年期(40〜64歳)における「難聴」が、予防可能な最大の危険因子であると結論づけられたのです。
この報告では、認知症を予防できる可能性がある12の生活習慣因子の人口寄与割合を合計約40%と推計し、その中で中年期(40〜64歳)の難聴は予防可能な最大の危険因子に位置づけています。
予防可能な認知症リスク因子の影響度比較(2020年ランセット委員会報告より)
- 中年期(40~64歳)の難聴:8.2%
- 高血圧:1.9%
- 肥満:0.7%
これは、中年期の難聴を放置することが、高血圧や肥満といったよく知られた健康問題よりも、将来の認知症発症に強く関わっている可能性を示しています。耳という感覚器の問題が、脳の健康全体を左右する最重要課題として位置づけられたことは、認知症予防に対する考え方を大きく変えるものでした。
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2. 新常識②:リスクは「ある/ない」ではなく、「階段状」に悪化する
難聴による認知機能低下のリスクは、「難聴があるか、ないか」という単純な二択ではないようです。米国のジョンズ・ホプキンス大学などが行った大規模な追跡調査では、聞こえにくさの程度が進行するにつれて、リスクが「階段状」に高まっていくことが明確に示されています。
健聴者(正常な聴力を持つ人)と比較した認知機能低下のリスクは、以下の通りです。
- 軽度難聴: 健聴者の約2倍
- 中等度難聴: 健聴者の3倍
- 高度難聴: 健聴者の5倍
この「階段効果」が意味するのは、「まだ少し聞こえにくいだけだから大丈夫」という油断が最も危険だということです。リスクの上昇は軽度の段階からすでに始まっており、聞こえにくさを感じ始めたら、できるだけ早い段階で対処することの重要性が、このデータから浮き彫りになります。
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3. 新常識③:脳は「静かな過労」状態にあり、実際に萎縮していた
では、なぜ耳の問題が脳の認知症にまでつながるのでしょうか。研究者たちは、そのメカニズムを主に3つの側面から説明しています。これらは、聞こえにくくなった脳の中で静かに進行する異変です。
- 認知的負荷 : 難聴になると、脳は不鮮明な音声をなんとか理解しようと、本来は記憶や思考に使われるべき貴重なエネルギー(認知リソース)を「聞く」という作業に過剰に振り向けなければなりません。この脳の「過労状態」が長く続くことで、脳全体が疲弊し、記憶力や判断力といった他の認知機能が低下していきます。
- 社会的孤立 : 会話についていけなかったり、何度も聞き返すのが申し訳なく感じたりすることで、次第に人との交流がストレスになり、趣味の集まりや会合から足が遠のいてしまいます。このコミュニケーション機会の減少は、脳への知的刺激を減らし、社会的な孤立を深めます。孤立はうつ病のリスクも高め、うつ病もまた認知症の危険因子の一つです。
- 脳構造の変化 : 耳からの音の刺激が長期にわたって減少すると、脳に物理的な変化が起こります。研究では、難聴のある人はそうでない人と比べて、脳の萎縮が年間で1立方センチメートル以上も速く進むことが報告されています。脳が十分な刺激を受け取れなくなることで、神経細胞が衰え、脳そのものが縮んでしまうのです。
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4. 対策④:「聞こえ」の対策で、認知機能低下を48%抑制できる
ここまでの話で、不安を感じた方もいるかもしれませんが、数々の研究は、リスクを指摘すると同時に、「難聴は対策が可能な危険因子である」とも結論づけています。
2023年に発表された臨床試験「ACHIEVE研究」では、参加者を無作為に2つのグループに分け、一方には補聴器による聴覚ケアを、もう一方には健康教育のみを行いました。特に、将来の認知機能低下リスクが高いとされた参加者グループにおいて、驚くべき結果が示されました。
補聴器を3年間使用したグループは、使用しなかったグループと比較して、認知機能の低下率が実に48%も抑制されたのです。
この結果は、研究全体で見た場合の効果は限定的であったものの、認知症のリスクが高い人々にとっては聴覚ケアが極めて有効であることを力強く証明しました。「聞こえを適切に補う」という行動が、将来の認知機能低下を防ぐための、科学的根拠に基づいた予防策であることを示したのです。聞こえの対策は、将来の自分と脳の健康への最も確実な投資の一つと言えるでしょう。
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5. 最大の誤解⑤:「本当に困ってから」では遅い。対策は「軽度」からが鉄則
多くの人が抱きがちな「本当に困るまでは何もしなくていい」という考えは、残念ながら大きな誤解です。これまでの研究が示しているのは、むしろその逆です。
聞こえの対策は、難聴がまだ「軽度」の段階で始めるほど、認知機能低下に対する予防効果が最も高いことが分かっています。脳が音の刺激不足に慣れて萎縮が進んでしまう前に、豊かな音が聞こえる環境を取り戻すことが、将来の健康を維持する上で決定的に重要だからです。また、軽度のうちに対策を始めると、脳が新しい聞こえ方に順応しやすく、補聴器などの機器にも慣れやすいというメリットもあります。
「いきなり補聴器はハードルが高い」と感じる方もいるかもしれません。補聴器は専門家による調整が必要な医療機器ですが、集音器はより手軽に試せる家電製品です。テレビの音が聞こえにくい、特定の場面での会話を補助したいといった軽度の悩みには、まず高品質な集音器を「入り口」として活用し、早期に音の刺激を脳に届ける習慣を始めるのが現実的な第一歩です。最も大切なのは、対策を先延ばしにせず、早い段階で行動を起こすことです。
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あなたの脳は耳を澄ましている
「聞こえにくさ」は、単なる加齢による不便さではありません。それは、私たちの脳の健康状態を示す重要なサインであり、将来の認知機能を守るための介入点でもあります。
予防できる認知症の最大のリスク因子が難聴であること、そしてその対策が認知機能の低下を約半分にまで抑制できる可能性があること。この事実は、私たち一人ひとりが自分の聴覚にもっと注意を払うべき理由を明確に示しています。
聞こえのケアは、耳のためだけではありません。それは、あなたの脳のためのケアなのです。大切な未来を守るために、あなたの「聞こえ」が発しているサインに、今こそ耳を傾けてみませんか。
更新日:2025年9月22日(月) 09:23
